BetterCare

 
診察も検査もせずに難病と宣告したり、
薬づけにした病院への不信感
 東京都世田谷区/高山都規子さん(64歳)

 

  ようやくわかった本当の病名

都規子さんは多才で多趣味で行動派。「かたよせて ともにあゆまん介護道 つらさうすれてたのしくもあり」──都規子さんの作である
 平成6年2月、自宅で転んだ高山彦三郎さん(73歳)は、食器戸棚の取っ手に腰をぶつけ動けなくなった。かつぎ込まれたY病院では診察も血液検査、レントゲン検査もせず、「難病に指定されている筋萎縮側索硬化症で、あと3年、もって5年」と宣告を受ける。

 診断には納得できないものの入院予約手続きをしていったん帰宅。そのうちに脱水症状が出てS病院に緊急入院。「腰椎圧迫骨折」という診断で3か月入院した。その際受けたCT検査の結果、少し脳梗塞が生じているが、年齢(当時69歳)からは「驚くほどではない」ということだった。

 ここで彦三郎さんは、幻覚症状に悩まされ、さらに症状は高じて夜中にわめき始める。「多種類の薬と睡眠薬が投与されていました。病院からは24時間の付添い人を付けるようにいわれ、経済的にも大変だった」と、奥さんの都規子さん(64歳)は述懐する。

 3か月が近づくと転院を迫られた。「痴呆症」と記載された診断書、さらに彦三郎さんが動けないとなると病院捜しはなおさら大変である。S病院の主治医は「こういう病人を預かってくれる病院はなかなかない」と転院先紹介の労を放棄してしまった。都規子さんはますます医者不信に陥っていく。福祉事務所に何度も足を運び相談するが、所在は教えてくれても、直接紹介はしてくれない。

 やっと捜し当てたA病院は、名の知れた老人病院。ケースワーカーは親身に相談にのってくれた。都規子さんが望んでいたMRI検査も、A病院には設備がないからとT病院での受診を取り計らってくれた。検査結果は「多発性脳梗塞」だった。

  行政に望みたい臨機応変な対応

彦三郎さんは東宝砧撮影所で美術を担当していた。「彦さん」の愛称で活躍。三船敏郎がなくなったときはやはりショックだったという。映画の話になるとがぜん熱っぽくなる。「戦争の画面で、兵隊の帽子のかぶり方なんぞ、いいかげんだね。あみだにかぶっちゃたりして。みんなわかっちゃいないんだよ」
 A病院では睡眠薬の投与もなく、きざみ食になり、彦三郎さんはみるみる元気を回復、幻覚症状も消えてきた。

 リハビリも1日おきになされ、ベッドから自力で車椅子に乗り移り、食堂で食事をし、また戻ってベッドに横たわることができるほどまでになり、食欲も日増しに出てきた。

 ホッとしたのも束の間、3か月経過するとA病院もベッドを空けなければならない。しかし、都規子さん一人が在宅介護をするには、もう少し回復を待たねば無理ではないかとの判断で、2か月の入院延長が認められた。この間に在宅介護の環境を整備しなければならない。

「まず福祉事務所で、ベッドやポータブルトイレなどの介護用品のレンタルを申請するとともに、自宅内の改装を相談しました。改装にあたって工事費の助成金を受けるには、理学療法士、登録リホーム業者、福祉事務所の担当者、病人本人と家族同席のうえで審査があり、OKとなれば1か月後ぐらいから工事が始まるということでした。この手続きを踏まないと助成金は出ないんです。A病院からリフト付きタクシーで連れ帰り、用事が済むとまた病院へ戻る、往復で3万円以上もかかるんですよ。融通がきかないというか、このへんが行政に不満を感じるところですね。もっと臨機応変な、スピーディな対応ができないものでしょうか」と、都規子さん。当時の腹立たしさはいまも消えてはいないのだ。

 行政を待っていてはらちがあかない、1日も早い改装が得策と判断した都規子さんは、知り合いの大工さんに依頼した。むろん助成金は出なかった。平成6年10月、約8か月の入院生活に別れを告げ、彦三郎さんの在宅介護が始まった。

  かたよせてともにあゆまん介護道

 都規子さんは苦しみや辛さを楽しみや喜びに転嫁する達人かもしれない。昨年10月、世田谷区社会福祉協議会主催のリフレッシュ旅行で知り合った人たちと「かたよせ会」なる会を組織し、互いに息抜きの場、情報交換の場、第三者的に客観的に考える場として月1回の集いをスタートさせた。

 会員は現在23名。会長は都規子さんが務めている。ちなみに「かたよせ」とはお互い肩を寄せ合うとの意味で、彦三郎さんの命名だそうである。

 肩寄せ合った彦三郎さんと都規子さんの介護生活は、「杖をついてでも歩きたい」彦三郎さんの目標に向かって、今日も続いている。


世田谷区の介護環境



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