BetterCare

 
心を鬼にして、
左半身麻痺の妻のリハビリ訓練を支え続ける
 埼玉県越谷市/原口義治さん(72歳)

 

  介護する夫の目標と介護される妻の目標

「悠々自適とはいかないまでも、時折、車でどこか遠出して、油絵が好きな妻には絵を描かせ、その側で私は釣りでもと思っていましたが、それもできなくなりましたね」
 介護する人・原口義治さん(72歳)と介護される人・妻よし子さん(74歳)の話をひととおりうかがって印象に残ったことは、ご両人ともそれぞれがはっきりした目標を持っておられるということだった。

 義治さんは「願わくば私の体力があるうちに、妻の機能を回復させ、社会復帰させてやりたいです」と言い、よし子さんは込み上げる感情のためか声をつまらせ、泣き声ながらに「孫の子どもば、おんぶしたり、だっこしたりね、私が子守りばしてやると孫に言うたけん、早くよくなりたいの」と、佐賀弁をまじえて言う。

 よし子さんのリハビリ訓練は、自宅近くの整骨院が舞台。ほぼ毎日、電気マッサージを中心に握力、手足の筋力増強をねらった訓練が続けられている。

「例えば、元の機能を10として、リハビリで取り戻そうとすれば、10のレベルでなら平行線。20から30のレベルでやらないと回復には向かわない」と義治さんは言う。

 さらにもう一つの舞台は、元来、手先には自信ある義治さん手づくりのリハビリ用具を使った自宅での訓練。

 義治さんが怒れば、よし子さんは必ず泣くが、怒らないと訓練がどうしても甘くなってしまう。義治さんの、心を鬼とした日々が続く。

  会社人間一途だった夫と家庭全般を仕切った妻

左肩と左腕との間に指が2本ほど入るぐらい筋肉が落ち、当初絶望視していた左手も、いまでは、この高さにまで上がるようになった
 ともに佐賀県出身の義治さん夫婦は、小学校ではよし子さんが一級上の、互いに顔見知りの仲でもあった。

 戦後、建設機械メーカーに職を得た義治さんは、高速道路・新幹線開通、東京オリンピック、大阪万国博、沖縄海洋博と続き、日本列島改造にわく槌音高い時代の「花の営業マン」であった。

 福岡の営業所勤務からスタートした義治さんは、3年間の大阪での単身赴任を経て、昭和45年、東京本社勤務を命じられ、家族ともども、この越谷の地に居を構える。

「あのころは、みんなモーレツ社員だった。連続出張23日間というのも記憶にありますね。沖縄出張の翌日には新潟に飛ぶとか、全国を駆けずりまわっていました。営業マンが家庭を振り返って仕事するなんて、考えてもみなかった」と、義治さんは述懐する。

 家庭のことは、すべてよし子さん任せ。何でも一人で決め、一人でやってきたよし子さんは、いまは何もできない。よし子さんの無念さ、もどかしさが夫にはよくわかる。そこまで妻を追いつめてしまった自らの生きざまに心が痛いという。

  見つかった脳動脈瘤

義治さん手づくりの一連のリハビリ用具。指先とか腕の訓練用。板切れ、ホース、紐など身近に転がっている廃物を利用してつくる
 3人の子どもたちも、すでにそれぞれ家庭を持ち、定年後は夫婦二人きりの、のんきで、気ままな生活が続いていた。

 例年、夏と秋には、北海道旭川市で自営業を営む長女の嫁ぎ先に、手伝いを兼ねて旅行することが恒例となっていた。

 平成8年10月の旭川行で、余暇にフラワーデザイン教室を主宰している長女の生徒で、ご主人が脳外科医という方の勧めもあって、たまたま脳の検査を受けた。

 検査の結果、ひっかかったのは妻のよし子さん。6ミリ大の脳動脈瘤が発見されたのである。

 同年12月、東京都立大塚病院で再度検査を受ける。確かに脳動脈瘤も心持ち大きくなっているように義治さんには感じられたという。

「もう一か所、別の病院で検査を受けてください」との大塚病院の指示で、翌年の平成9年1月、東京・恵比寿にある中央厚生病院で検査を受ける。

 大きくなりつつある瘤がはっきり確認され、同年2月末に大塚病院に入院。3月13日、手術は行われた。

  くも膜下出血による左半身麻痺

介護者が運転できると、車はなにかと便利。便利なだけではなく、介護の中味まで変わってくる。車椅子をのせて近くの公園まで行って散歩したり、買物に出かけたりと原口さん夫婦は車と三位一体。ただし、義治さんの運動不足がちょっと気になるところ
「瘤がパンクして来られても、50%は救急車が病院に着くまでに亡くなる。25%は植物人間化する可能性が大きい。本当に助かるのは25%」との病院側の説明を受ければ、だれしも瘤がパンクする前に手術を、と考えるのは当然といえる。

 しかし、「これほど大きく障害が出るとの認識が、私どもにはちょっと薄かった」と、義治さんや家族を残念がらせる事態が起こる。

 脳動脈手術後、くも膜下出血がおき、右の脳に2か所梗塞が生じて、左半身麻痺に陥ったのである。

 最悪の場合、左手と左足は動かなくなると言われたが、集中治療室を出るころには、左足はむろん完全とは言い難いものの少しは動くようになっていた。

 脳外科病棟からリハビリ科病棟に移って、本格的なリハビリ入院生活が始まるが、ここで困った問題が生じる。よし子さんがなかなか病院生活になじめないのである。

「この人、不安性とでもいいますか、普段からそうなんですが、病院という特別な環境でそれが昂じてきたようで、きわめて精神的に不安定になっていきました。特に夜がダメなんですね。午前3時ころに目が覚めてしまって、不安がって、大声を出したりするもんだから、同室の患者さんたちに迷惑をかけるようになって、リハビリ療養の途中だったのですが、5月23日に退院しました」

 こうしたよし子さんを気づかって、よし子さんが入院中、義治さんは朝5時に起床、7時の朝食に間に合うよう車で通うのが日課となった。終日、よし子さんに付添って、夜9時ころ寝かしつけて帰宅するのが、ほぼ毎日のことであったという。

  孫の訪問が介護に一服

 週のうち、ヘルパーが訪問する時間とよし子さんがデイサービスセンターに出かける時間が、義治さんの自由になる時間だ。

 庭の手入れをしたり、車を洗浄したり、銀行に行ったり……ひととおり用事を片づけながら、合間を見つけては好きなゴルフの打ちっぱなしに興じるのが、義治さんにとっては唯一の息抜きの時間となる。

 一方、よし子さんは目と鼻の先に住む次女の子どもたちの訪問がなによりも楽しみである。高校に通う孫娘は朝な夕なによく訪れては家事を手伝ったりする。大学生の孫息子は3日にあげず来ては「ババ、左手を上げて」とか「こら、まだ寝てるのか」とか檄をとばしていく。義治さんから「孫離れが悪い」と皮肉られるよし子さんだが、孫たちの訪問がうれしくてたまらない。それが単調な介護に一服もたらしてくれる。義治さんにとっても、むろん、うれしいひと時である。


越谷市の介護環境



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