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| 福岡県甘木市/飯田栄彦(よしひこ)さん(57歳) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
飯田栄彦さんの母、ハル子さん(82歳)が、特別養護老人ホーム「甘木愛光園」にやってきたのは、2000年2月のことであった。入所以来、ハル子さんは、日を追って顔色も良くなり、穏やかな表情を見せるようになっていった。 昨年10月から、飯田さんは母の夕食介助のために同園を訪問するのを日課にしている。小一時間、母との会話にならない会話を楽しみながら、ゆっくりと食事をとらせていく。 「今では、毎日こうして会いにくるのが、私の大切な仕事。午後4時半から6時までの時間は極力仕事を入れないようにしています。母は私に介護のチャンスを与えてくれています。母が生きているうちは自分は死ねないぞ、そのためには暴飲暴食をしちゃいかんとか、車を飛ばしちゃいかんとか思うでしょ。まさに母が死を止めてくれてる感じですね」 母は懸命に、飯田さんに向かってくる「死」の防波堤になってくれていると考えたとき、毎日の夕食介助は、わずらわしいことではなく、むしろ楽しみに変わっていったのである。 母の入院を境に、「在宅」から「施設」に替えた飯田さんは、あくまでも施設に助けてもらうのであって、施設に預けたのではないと言う。施設は収容所でも病院でもない。そこは人生最後の何年間かを、もっとも充実した人生として送らせる場所なのである。そのためには、「家族」が施設から抜け出ていていいはずはない。人それぞれに事情が違っているにしても、預けっぱなしで施設を“姥捨て山”にしてはならないことを、飯田さんはみずからの実行で訴えてくれているのである。
かつては日本舞踊、着付け、生け花、和裁、料理と何でもござれのハル子さんだったが、よく鍋を焦がすようになり、料理からもだんだん遠ざかっていく。簡単な全自動洗濯機の操作なのに何度教えても覚えきれない……すでにこんなことが始まっていた。
95年9月、飯田さん家族は、それまで生活していた市営住宅をたたんで、徒歩5〜6分の所にある実家に戻り、両親との同居を始めた。父78歳、母76歳のときであった。 後になって聞けば、このころのハル子さんの言動には、突然怒り出したり、隣近所の人に感情を荒げたりと、徐々におかしなことが起こり始めていたのだ。が、飯田さんはまだ深刻には受け止めていなかった(当時、それは親の恥でもあり、自分の恥でもあるとの思いがどこかにあったと飯田さんは言う)。 しかし、庭のあちこちに生ゴミを捨てたり、にぎりずしのシャリを湯飲みに入れて醤油を注いで食べようとしたり、服を前後に着たり、下着を首に巻きつけたり……と、ハル子さんの奇行はどんどんエスカレートしていく中で、下された診断は、アルツハイマー型痴呆症中期というものであった。 児童文学者として活躍する飯田さんは、もの書きの習性ともいうのであろうか、97年4月1日より、ハル子さんの異常を日記につけ始めた。それは、ハル子さんの時限爆弾のように爆発する感情の嵐に翻弄される飯田さん家族の“修羅場”の備忘録でもあった。 時を選ばぬ徘徊と所構わぬ排泄。妻や娘に向けられた暴言や暴力の数々。それらについては、ナマナマしい状況を、臆することなく著わした飯田さんのエッセイ集『ラストプレゼント ― 介護は親からの贈りもの』に詳しい。
講演とか講座、講義でどうしても家をあけねばならないとき、どうすればいいのか、飯田さんにとって大きな課題になってきた。それまでは車で一緒に連れて行ったりしていたが、もはや母の症状はその域を越えていた。当時の飯田さんは福祉にはほとんど無知で、明解な知恵も浮かんではこなかった。 あるとき、在宅介護支援センターのスタッフである、かつての塾の教え子の母親からもらった「一人でがんばらずに、施設を利用してください。私たちはプロですから」とのひと言が胸残る。このときから、飯田さんは積極的に、ショートステイやデイケアを取り入れていくようになる。 「預かってくれるとわかったときの安心感といったらなかったですね。金土日に預かってもらうでしょ。あれがなかったら私は倒れていたかもしれません」
こうした施設においても、ハル子さんの暴言、暴力はいかんなく発揮され、とうとう施設を利用できなくなるという瀬戸際に立たされた。風呂場で暴れるハル子さんに手を焼いた職員が、押さえつけて注射をしたとの事後報告にも、飯田さんはただうなずかざるをえなかった。 98年10月、24時間の看護体制が整っている病院の精神科に入院させる。ほぼ一か月の入院であったが、ここでは「薬による拘束」が行われた。 退院後、確かに薬の効用であろうか、ハル子さんの感情爆発は影を潜め始めていた。しかし、それは、おとなしくなったというよりは元気がなくなったという感じで、いつ知れず自分の手で食事もとらなくなっていた。
ショートステイ先で転倒、大腿骨骨折というアクシデントに見舞われたのは、99年2月8日のことであった。このころ、ハル子さんの足元はおぼつかなくなり、ちょくちょくつまずいたりしていた。やはり薬の副作用から生じているのではと、後々、この治療を受け入れた飯田さんは自責の念にかられるとともに「もっと恐ろしいのは、あの激しい徘徊と乱暴の日々の中で、いっそ脚でも折って動けなくなればいいという邪心が、一瞬にせよ心をかすめたりはしなかったかということです。私はそれを否定できません」と自問自答する。 かといって、あのせっぱ詰まった日々を、薬なしでやり過ごすのにどんな手だてが他にあったかとなると、飯田さんは今でもわからないという。飯田さんにできたことは、ただ現実をあるがままに受け入れるということだけだった。
母の手術と加療による入院は、ほぼ一年にわたり、ついに寝たきりになってしまった。一方、父は、以前に患った心筋梗塞と貧血に加え痴呆の症状が出始めて、かねてからなじみの病院で出たり入ったりのわがままな入院生活を送っていたが、末期の胃がんが見つかり、99年8月15日亡くなった。享年83歳であった。父は最期まで妻(母)が痴呆症であることは認めようとはしなかった。母に向かって「ちゃんとせんか、おまや。甘えちょる!」が口癖だった。一方、母はもう夫(父)の死を理解できる身ではなかった。 父は元国語の教師で、剣道六段、居合道六段の偉丈夫。無類の酒好きで、暴君であった。ことに酒が入ると、人格が変わった。たびたび母に手を挙げることもあり、夫婦げんかは絶えなかった。長男である飯田さんは、小さいころより父から母を守りたいとの思いが強かった。それが母と飯田さんとの関係を特別なものにしてきていた。 すでに発症していたとはいえ飯田さんの妻に向けた姑ハル子さんの罵詈雑言の数々(「あたしはヨシヒコと暮らしたいと。なんでここにおまえがおるとか」「よけいなもんがついて来てから。子どもを連れて早よ出て行け。じゃまもんが」「あたしはヨシヒコにしてもらいたいと。あんたにしてもろうてもうれしゅうはない」など)には、飯田さんを一人占めしようとするハル子さんの“因縁”が浮かんでくる。時に、飯田さんを見つめる、からみつくようなハル子さんの視線に飯田さんは苛立つこともあったが、みずからを白日の下にさらし、赤裸々に「書き」「しゃべる」ことによって、乗り切っていこうと飯田さんは決意した。
「時」がつくりだす「老い」の正体に直面している飯田さんは、次第に命とは何か、老いとは何か、慈しみとは何か……など、そんなことを考えさせてくれる「深い淵のような人生の最後の姿」を、「命がけで見せてくれている」のが母だと思えるようになってくる。介護にまつわる悲喜こもごものすべてを、飯田さんは「親からの最後の贈りもの(ラストプレゼント)」だと考えるようになっていた。 |back| |